昭和45年8月28日 夜の御理解 9分
午後から例の竹葉会、若い嫁さん達ばかりの会でございましたが。本当に一人一人の信心が、主人の信心を通して、あいうふうにイキイキと育っているということを感じました。
ここにお参りをするというても本当に、竹葉会に時々しかお参りが出来ないという人。精々参って、月次祭だけぐらい。それでまぁようあれだけの信心のいよいよのところを皆が分からせてもらえ、はーくして日々の信心生活に取り組んでいるということは有り難いと思いますことは、結局主人の担う人達に信心がしっかりして。
まぁほとんどがですね、皆の話しが出たんですけど。昨日、あそうさんが来てましたが。あちらのたいこさんと言うかね、今三才でしょうか。内に休ませてもらうと、今日はお家に泊まってもよかの。と言うそうです。ほとんどが帰られるのですからね。
高橋さん方もですの、なんか、それと同じようなことをですね、よしろさんの奥さんも言ってました。高橋さんも言ってました。皆も熱心にいうなら、今朝の御理解で申しますと、本当に信心にある意味においての、そのぼうけとるごとして、一生懸命になったという事。
ですから、家内達の信心は勿論本人の信心というか。たとえば、文男さんなんかの場合なんかは、何とも言いませんけれども、主人の行き方を見ていると、やはり信心にならなければおられないというふうに言うておりますしね。
高橋さんなんかも、あんな他所では良く話されますけれども。めったにその話をする機械ないけれども、もう不思議なごと、御夢の中に、合楽の信心を破調を合わしていくように、ずっと頂くということですね。
それで、まぁ神様が家内達の信心も色んな形に応じて、育っておって下さるという感じがするですね。ですから、とにかく主人が一生懸命なら、家内なら家内もついてきおる。だから、本当言うなら、家内が一生懸命なら、主人もやはりついてこなければならないということにもなるようになる。
でも様々な実際も、嫁さん達場合ですから、もう実際問題ですよね。実際問題を踏まえての信心のけいこですが、結局、こういうことでした、結論。
もう、時間が欲しいぐらいに、これはもう1時間、2時間ぐらいその時間をとりたいというて『 (?) 』良いお話が出たんですけど。
結局は、かおりさんの例のまだお花を一生懸命けいこをしている自分に。大橋の山に花を切りに行ったと。ところが、その何を見ても、どれを見てもです、やぶの中に立って、あれも花の材料になる、これも面白い花が出来るなぁと思ったら、もうとにかくそのやぶの中で、はさみを持ったまま感動したという話しなんです。
ですから、いかに神様がですね、この花をこの木やら、その色んなものをですね、誉めたり、叩いたりするものも無い中に、それをはぁあれも花の材料になる、これも花の材料になると思うただけで、感動したというのは。どんなに考えても、当時はごとう香りでしたが、そのごとう香りの感動ではなくて、天地の感動であったろうということでございます。
ですから、問題はなら、全然花の経験の無い者がです、山の中に行ってから、感動いたしません。やはり、かおりさんが一生懸命の花のけいこをさせて頂いて、もうそれこそ、あの枯れ木枯葉でもです、あの人が見たら、花の材料になるものばっかりなのです。というほどしに、花が上達しておったということです、花の道が。
全てのものを生かす、あれも花の材料になる。私、ある時に、あのやつでの枯れた葉ばっかりを集めてお花をしてあるのがもう何ともいえん素晴らしい花で、あんに驚いたことがありましたがね。いうなら、もうはぎだめられている、捨てられているような、やずでの枯れた葉がです、あのように生かされている。
だから本当に花の道を精進した人はです、あれを見ても花の材料、これを見ても花の材料になるのですから。というのは、なら結局花の道を極めていっとらなければ、そういうことにはなってこない。ですから、信心の道でもです、様々な問題がある。問題が大きいいければ、大きいだけ、あやこしければ、あやこしだけに、はぁあれも信心の材料、これも磨く材料と。
例えば、そういうごみ箱に捨てなければならないような物からでもです、いうなら、『 (?) 』のお花が、そこに出来ているという事ですよ。
ですから、結局は私どもがもっともっと信心を極めさせて頂いたら、今は難儀と思っている、皆の問題が、全部信心のおかげを頂かせてもらうより大きくならせてもらう、より豊かにならせてもらう、より美しゆうならせてもらう、より大きなおかげを頂かせて頂くことのための材料ばっかりでしょうけれども、現在の私達には、それがまだ難儀にしか見えない。これは、まだ信心のけいこが足りないのだというところに、が、結論でしたね。 ですから、確かに私共の周囲にはもう神様の神愛が満ち溢れている。どういう悲しい問題でも、腹の立つ問題でもです、それはもうみんな素晴らしい信心の稽古をさせて頂く材料以外には無い。
これはもう絶対のものだと。ならそれを絶対のものだと信じておってもですね、これは神様の特別な働きが私の上にありよると思うてもです、それを生かしきれなかったらダメでしょうが。やっぱり、腹が立つ事は腹が立つ、情けない時は情けない。苦しい時には、苦しいのに。
ですから、それを信心の道をもっともっと上達していくことの焦点をおいての、例えば、今朝からの御理解のように、天地を神と見、神と感じる目と心を養うね。
天地をですね、神様とに、また神様のと、働きと感じれる信心の目と信心の考え方というものがですね、できればね。私共はいつも神の中をわけて通りおるようなもの。神愛の中にひたらして頂いているような実感がここにあるはずなんですね。
だからそこのところを極めて行く以外には無いと。全てが神様の神愛だと分かっても、それを生かしきれなかったらだめだと。結局『(?)』さんが、一生懸命の花のけいこをしている時には、すべてが花の材料に見えたということは、すべてを生かしおる力を持っておったということ。だから、家庭の問題の中で、姑役の問題でも、子供または信徒の人間関係の上においてもです、それがおかげだと分かっておるけれど、信心ではまだ生かしきっていないというところにね、信心のけいこ不足を感じる。
より本当のところを極め、本当のことが分かって、本当なところに焦点において、言わば信心のけいこをしているという気がいたしますね。有り難いことだと分かりよる皆さん達があいう、そして一人まだ、そうですね、まだここへ10回か20回しか参ったことが無い。それでも毎月参って来ているんです。
ただなんか、今日は、くぅーとしているような顔をしているけんで、「あんたはだいたいが、くぅーとしているような顔をしているが、もうちょっとほがらかにならないけんよ」と話してたら。「先生実は4、5日出てきております」と言うのです。
里帰りから今日は参って来ているのですよ。そうしたら、その皆の人たちが自分の体験をですね。○○さんとにかく頑張りなさいと。そこのところをこういうふうに頂きますと、銘々がその人に対して体験を話しておりましたがね。本当にあのよにして、お互いが信心の手をとりおって、信心をはげましよって行っているということなんかも、本当に竹葉会ならではという気がいたしましたですね。
※『(?)』が、聞き取れない言葉が3個あります。
末永あい